JFKA/日本フリースタイル・カヤック協会公式ブログ

1990年に設立されたJFKA/日本フリースタイル・カヤック協会の公式ブログです。 フリースタイル・カヤック競技の大会主催・運営の他、2007年まで世界選手権、ワールドカップ等へ日本代表チームを派遣していました。

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日本のフリースタイル・カヤック競技の20年

■日本のフリースタイル・カヤック20年の歴史-1991年■

第3回:開催が危ぶまれた第1回全日本選手権

フリースタイル・カヤックの可能性を感じた大会

前年のCJカップ開催、それに続くWRAJ/日本ホワイトウォーター・ロデオ協会の設立から1年後、
「第2回CJカップ&第1回全日本選手権」の開催を決定しましたが、問題は開催場所でした。
前回大会の会場となった「タチタチの瀬」ではふさわしくないと考え、新しい会場探しに奔走しました。
また各地のパドラーに問い合わせるなどして検討を重ねていたところ、1軒のカヌーショツプから電話がありました。
「富士川にいいスポットがありますよ」と。
電話をくれたのは静岡のカヌーショップ「ロブソンランチ」さんでした。
後日、早速会場に視察に行きました。
予想以上に広い川幅の中にバックウォツシュの強いウェーブのポイントが3箇所ほどありました。
右岸からのエントリーは厳しいが、左岸には大きなエディもありエントリーもしやすい。
他にこれといった開催場所の候補が挙がらなかったこともあり、富士川での開催を決定したのでした。

1991年9月28~29日。記念すべき「ホワイトウォーター・ロデオ第1回全日本選手権」が開催されました。
参加者は43名。
エントリーはプレイボート部門18名、スクォート部門9名、オープンカヌー部門5名、新設したインフレータブル・カヤツク部門3名というものでした。
上記の日本人選手に加え、海外からはそうそうたるパドラーが参戦しました。
同年の7月にイギリスのジャスティニアン岬で3日間、開催された事実上の第1回世界選手権である
「ファースト・カヤック・ロデオ・チャンピオンシツプス」の1位のヤン・ケルナー(ゴールドウイン招待)、3位のクリス・スペリアス(サンデプラニング招待)、5位のロブ・マクドナー(モンベル招待)、そしてスクォート界の女帝リサ・シモダ・キャラウェイ(カヌージャーナル招待)、エド・ローパー(高階救命器具招待)の5名でした。
参加者の増加、加えて海外選手5名が参戦ということで、大きな盛り上がりを見せました。
またTBSテレビのニュース番組が取材にきたことも盛り上がりに拍車をかけました。

ところが大会開催前日の9月27日、台風第19号が日本海を通過。
中心気圧:925 hPa、最大風速:50m/h という大型の台風は富士川の水量を大幅に増やしていました。
28日、会場を見てみると川の色は茶色でまさに濁流・激流そのもので、とても大会を開催できる状況でないことは明らか。
練習を見ていても、個々の技術の問題はさておき、ロールで起き上がれないでいたずにら流されていく選手が続出。
スポットの下流100mには急に川幅が狭くなる「釜の口」というデンジェラス・ゾーンが待ち構えている。
レスキューもままならず、釜の口に吸い込まれていくパドラー。
事故こそなかったものの、その夜は全選手が一同に集まり緊急ミーテイングを行うこととなりました。
もちろん海外の選手も全員参加。
ミーティングでは様々な意見が飛び交いました。
「大会を中止するべきだ」「技術に自信のないものは参加を辞退したほうがよい」「明日の朝の状況を見て判断しよう」etc。
喧々諤々の話し合いは2時間近くに及び、意見の対立する選手の間は険悪なムードに…。
話し合いはひとつにまとまることはありませんでしたが、主催者として結論を出す必要がありました。
「今日の状況では開催はとても難しいものですが、明日の朝○時の時点で水量等を見て開催または中止の判断をすることにします」との説明に選手はとりあえず納得、解散となりました。
しかし、どうするべきだろうか?と眠れない夜を過ごしました。



ヤンとクリスxxx
ヤン・ケルナーとクリス・スペリアス

ポブ・マクドナーxxx
ロバート・マクドナー

エドワード・ローパーxxx
エドワード・ローパー

エドxx
エドワード・ローパー

リサxxx
リサ・シモダ・キャラウェイ

ヤンxxx

ヤン2xxx
↑ヤン・ケルナー

クリスxxx

クリス4xxx
↑クリス・スペリアス

不明xxx

日本人xxx

エンダーxxx
↑日本人パドラー

オープンxxx

インフレxxx

トップパドラー達のビッグウォータ-・チャレンジ

翌日29日。空には青空が広がり快晴でした。天気だけを見れば絶好のカヌー日和なのですが。
会場の様子は見ると、前日に引き続き水の色は茶色でしたが、水量はかなり減っていました。
しかし川の状況をひとことで表現すれば"ビッグウォーター"という言葉にしか該当しない状況。
多くの選手にとってはかなり困難な状況であることは判断できましたが、"これならできる"という選手達の声もあり、運営スタッフとも相談して開催することを決定しました。
競技は前大会の反省も踏まえ、すべての部門において競技時間を1分に短縮。
プレイボート部門は予選は3トライアルの合計得点により上位10人が決勝進出。
決勝は2トライアル。予選3+決勝2の合計得点で順位を決定。
オープンカヌー部門とインフレータブル・カヤック部門に関してはレスキューの問題を考え1トライアルに変更。
スクォート部門は2トライアルの合計という形で実施。
採点に関しても前回の最高5点から1点刻みの最高10点に変更。ジャッジは5人。

競技がスタート。
広い川にはスポットが5つほど。うち2つは大きなウェーブホールになっていた。
選手にとってはどのスポットにアプローチしていいものか判断が難しいところだか、とりあえず選手達は一番近いウェーブホールに飛び込んでいく。
しかし流れも水量も水圧も半端ではない。
入っていきなりロールを強いられる。起き上がった時には既に流されているというパターンにはまってしまう。
ポイントはいかにウェーブに残るかだが、サーフィンの状態で残っても、そこから次のムーブを行うのには大きなリスクが伴う。
といっても当時はサーフィンとエンダーしかないのですが…。
結局、成績の上位に来た選手はウェーブの中で1分間、サーフィンを行う。
またはパドル・トリックをプラスするというものでした。
今の時代の競技から考えるとのんびりしているようですが、選手達にとってはそれしか策がなかったということです。

競技にはカヌースクールでイントラクターを務める選手や経験豊富なエキスパート、現役の大学生スラローマーなど日本のトツプパドラーが集結。
第1回大会で活躍した石川、大沢、岡崎といった選手はもちろん、アオキカヌーの青木勇氏、サンデプラニングの吉原宣克氏なども参戦しました。
また女子選手も1人、男子に混じって参戦しました。
結果は日本人の1位、2位は現役の学生スラローマーとなりました。

多くの日本人選手が攻略に苦戦する中、海外選手達はビッグウォーターを楽しんでいたようです。
本来スクォートが専門のリサ・シモダ・キャラウェイも小柄で華奢な体に似合わず、パワフルかつ繊細なライディングを披露。
そのプレイには驚きの声があがっていました。
その後、日本での常連となるロブ・マクドナーも安定感のある堅実なライディングを見せてくれました。
OC-1が本職のエド・ローパーも持てる力を存分に発揮してくれました。
特筆すべきは、先の世界選手権1位のヤン・ケルナーと2位のクリス・スペリアスの壮絶な戦いでした。
互いに相手を意識しているようで、1トライアル毎に双方が火花を散らすライディングを繰り広げました。
特に決勝ラウンドでライディング終了後にクリス・スペリアスが怖い形相で「見たか!」とばかりに、ジャッジに向かって指をさしたときはジャッジ一同、その真剣さと迫力に圧倒されました。
まあそれまでの採点でヤン・ケルナーに負けていただけに、快心のライディングをしたクリスの気持ちも分かるというものです。
190cmもの巨体に裏付けされたパワーで豪快にカヤックを操るクリスに対し、華麗なパドリングとカヤック・コントロールで大胆にライデテングするヤン。
二人の対決はこの日、一番の見ものでした。
選手、ギャラリー、そしてジャッジのすべてが、この日、ビッグウォーターに立ち向かう海外パドラーのスキルの高さとフリースタイル・カヤックの限りない可能性を見たことと思います。


SQTxxxx


スクォートは会場を変えて、ほとんど流れのないポイントで行われました。
前回大会から僅か1年しか経過していないのに、日本のスクォーティストは確実に増えていました。
さすがにトップ3には得点で及ばないもの、ビデオやテキストで勉強してきた成果を十分に発揮しました。
ロブとリサの滑らかなスクォーティングはまるで舞踏会のダンスのような印象を受けました。
プレイボートと異なり、スクォートの時はギャラリーもとても静かでした。


■全日本選手権に出場-早川正志

日本で行われたフリースタイルカヤックの第2回大会は、静岡県の富士川で開催されました。
当日は大雨による増水で、普通の人が見たら、こんな日に川へ出るのは正気の沙汰でないと思われるような増水であったと記憶しています。
事実、会場場所から下流に流された人は、かなりの距離を泳ぎレスキューされました。
また下流の淵は強烈な渦を形成しており、そこを身ひとつで流されることを想像すると、生きた心地はしませんでした。
しかしこのような状況下で、外国からの招待選手は生き生きとプレイしていました。
強烈なウェーブホールが発生している場所で、スピン、エンダー、パドルトリックをガンガンキメてきます。
パドルを放り出してのプレイなど、見ている者をハラハラさせ、会場の盛り上がりは最高潮に達しています。
フリースタイルカヤックの大会はプレイボート部門とスクォート部門に分かれており、私はプレイボート部門にも参加しましたが、スクォートに賭ける比重が大きく、散々たる結果だったと記憶しています。
記念すべき第1回大会は、カヤックの共通の友人の結婚式と重なってしまったために、東海地区のスクォート・メンバーは参加しておらず、この第2回大会が実質上、私たちにとっては初の大会出場となります。
私たちと言ったのは、このスクォート好きなメンバーのスリルシーカーズ(ジムさん命名)は日本で一番上手いスクォート乗りにしようと日々努力し、楽しくそしてスリルを求めてきたメンバーの、今までの成果を見せる場所であったからです。
大会場所は激流では危険であり技が成立しないため、比較的易しいエディとプールで行われました。
と言っても水は濁っており、どこが深いのか浅いのか全くわからない状況でした。
プレイボート部門に比べスクォート部門はエントリーも少なく技の派手さがないため、お世辞にも盛り上がったとは言いがたい状況だったと記憶しています。
しかし、私のプレシャーはかなりのものでした。スリルシーカーズを日本一にするべく頑張ってきた、この成果を僅か数秒に出さなくてはなりません。
結果的にはバタバタしたものの、その頃大技だったカートウィールをキメて、PFDに雪が降り積もる日もスクォート練習を行ってきた私たちの努力は報われました。
今思えば、こんなに緊張したスクォートは、先にも後にもこの富士川大会だけではないでしょうか。
海外大会で出会うスクォート乗りは、ジムさんの教えである「Have Fun」を忘れず、お互いを尊重しています。
競技としてとらえれば仕方ないことかもしれませんが、スリルシーカーズはこの大会を機に、さらにスクォート技術の向上へと向かっていくことになりました。

私が始めてカヤックのフリースタイルを知ったのは、名古屋のとあるアウトドアショップのビデオで流れていた「ブラストイントーザサードディメンション」でした。
このビデオは、スクォートを開発したメンバーの一人、ジェシィーウィットモアさんとかが出ていたと記憶しています。P社のセイバーというスラ艇ともスクォート艇ともいえる長い薄いボートで、スターンスクォートで延々とクルクル回っていて、あぁこんな技がカヤックでできるんだーと思い、是非自分もやりたいと強く思ったものでした。
しかし、このショップのセイバーを借りてカヤックスクールに参加してみると、狭いコックピットやグラグラ感に、「あぁオレにはこんなボートは無理だ」と感じ、結局あの頃の定番ボートであるダンサーを購入したのでした。
あの頃のカヤック全盛期は、のんびりゆったりツーリング、川旅なんかも流行っていて、それなりに楽しかったのですが、ちょっとした瀬のウェーブなんかでサーフィンをしたり落ち込みでバウを指してエンダーごっこをしたりしているうちに、また沸々とフリースタイル魂が湧き上がり、フリースタイルカヤックを是非したいという気持ちが高まったことを記憶しています。
当時私は会員数300名を誇るカヤックのサークルに所属しており、その中でもこのフリースタイルカヤックが好きなメンバーが数人いて、木曽川の富士の瀬ウェーブでプレイボートで遊んでいましたが、同じ考えのメンバーが数人いて、ある時「何かキラキラのラメ入りのスゲーボートがあるぞ。
バウとかスターンとか簡単にエンダーできるらしいぜ。
しかもミステリームーブとかわけわかんねぇ技もあるらしい。」という情報を聞きつけ、皆でスクォートのビデオ「ファンフォーエバー」を見たとき、アタマはガンガンし「まさにこれだー、オレがしたかったのはこれなんだー」とまたまた強烈な印象を受けたのでした。

早川政志:マーシーの愛称で呼ばれ、プレイボートとスクォートの二つの部門で活躍。
プレイボート部門の全日本選手権優勝2回、年間総合優勝3回、通産勝利数11勝。
スクォート部門の全日本選手権優勝6回、通産勝利数9勝。
世界選手権出場5回。


エントリーxx

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当初は開催が危ぶまれた「第1回全日本選手権」も無事、終了しました。
個人的には大きな感動と達成感を心に満たした大会でした。

帰路、リサ・シモダ、ロブ・マクドナー、エド・ローパーと会食をしました。
その時に「将来的に日本で世界選手権が開催できるだろうか?」と訪ねました。
ロブは「今大会はいいオーガナイズだった。日本で世界選手権を開催するにはまだ時間がかかるだろうが、将来的には確実にできるよ」、リサは「来年はアメリカで行われるから、その次に立候補すればいい。協力するわ」といってくれました。
また合わせて「来年の世界選手権に日本チームを作って参加しなさい」ともいってくれました。

翌1992年、第2回全日本選手権を木曽川で開催、そしてアメリカのオコーイ・リバーで開催された「第2回世界選手権」に日本代表チームが参戦することになるのですが…。


■第2回カヌージャーナル杯&第1回全日本選手権リザルト

●プレイボート部門
①ヤン・ケルナー
②クリス・スペリアス
③ロブ・マクドナー
④エド・ローパー
⑤山本真介
⑥後藤友彦

●オープンカヌー部門
①エド・ローパー
②森下洋行
③佐藤憲一

●インフレータブル・カヤック部門
①柴田 等
②山西雅彦
③吉原信忠

●スクォート部門
①ロブ・マクドナー
②リサ・シモダ・キャラウェイ
③ヤン・ケルナー
④早川政志
⑤岡 英樹
⑥市橋博明

■「ファースト・カヤック・ロデオ・チャンピオンシップス」大会概要

6カ国22人が参加。
潮の干満により海上にウェーブが発生する会場で、1.ホール(ストッパー)ライディング、2.サーフィン、3.スプリント、4.スキルテスト、5.スクォーティングの5部門で競い、合計により総合優勝を決める方式で行われた。
公平を期すために、5つの部門でそれぞれ異なるカヤックが使用された。
1.パーセブション・コルシカ、2.ピラニア・スタントバット、3.エース・ファルーシオン、4.プリヨン・インベーダー、5.OLS・エニグマ
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日本のフリースタイル・カヤック競技の20年


ロデオを特集したCJ3号
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■日本のフリースタイル・カヤック20年の歴史-1990年■

第2回:日本での最初のロデオ大会開催秘話


●日本に大きな足跡を残した二人のカヤッカーに感謝

現在ではプレイボートという言葉も一般的となりましたが1990年当時、ポリ艇という言い方はあってもプレイボートという言葉はインポーターの一部しか知らなかった言葉でしょう。
プレイボートという言葉と出会ったのは、アメリカで発行されている「canoe MAGAZINE 1990 Buyer's Guide」でした。
その雑誌ではカヤックを11種のカテゴリーに分けていて、プレイボートとはその中のひとつのカテゴリーでした。
プレイボートは正式にはホワイトウォーター・ブレイボートといい、その名前の通りホワイトウォーターでプレイすることを目的としたボートいうことです。
スクォートもスクォートボートというように、カヤックといわずにボートというところは語呂の問題なのでしょうか。
より詳細に説明すると、瀬とホールでハードなプレイできる、ウェーブでサーフィンができる、ターンが素早いといった特徴を備えたボートでした。
この1900年、バイヤーズガイドにプレイボートとして紹介されているのはダガー/レカポンス(3.43m、0.597m、276L)、ノア/AQ(3.18m、0.61m、276L)、ウェーブスポーツ/レーザー(3.4m、0.58m、226L)、プリヨン/ガッチーノ、Tタイフーン他、パーセプション/ダンサー(3.5m、0.6m、263L)コルシカといったボートでした。
ほとんど3m中盤の長さが主流の中、スタントバット(3.11m、0.61m、210L)は全長の短かさと形状、そしてボリュームから、よりスポットプレイを意識した当時では最も進んだプレイボートだったと思います。
参考までにヨーロッパでは当時、スタントボートと読んでいました。

アメリカから帰国して、さてどうして、どこで、いつ、どういう形で大会を開催しようかと日々、考えました。
カヌー関係の友人・知人に大会開催のプランを話しては、いろいろな意見を聞きましたが、一番の問題は果たして参加者がいるのか?
ということでした。
しかし、5カ月後。長良川のタチタチの背と呼ばれる場所で「第1回カヌージャーナル・カップ」を開催することになりました。
いまでは誰もプレイなどしないポイントですが、当時はそこしかなかったのです。というよりも知らなかったといったほうが正しいでしょう。
早速、カヌージャーナルの2号で大会開催を告知すると同時に国内のインポーターにも協賛以来等の挨拶を行いました。
日本で最初の大会ということで、ヨーロッパ・チャンピオンのヤン・ケルナー氏(ドイツ)を招聘することに決めました。

ヤン顔
ヤン・ケルナー氏

早速、当時ピラニアのインポーターだった(株)ゴールドウインに交渉をお願いしました。
ヤン・ケルナー氏はそれまでピラニア・カヤックのプロモーションのため2度ほど来日していました。
その来日の記事は山と渓谷社が発行していた「カヌー・マガジン」にも紹介されました。
実際にあったことはおろか、プレイを見たこともないのですが、ともかく現役のヨーロッパ・チャンピオンを呼ばなくては、次に繋がらないという判断でした。
来日することに関しては快諾をいただきましたが、問題はヤン・ケルナー氏招聘のためかかる渡航費用でした。
結果的にここまできて引き下がることはできないと決断、航空運賃の50万弱を支払うことにしました。
かなりの出費ですが、その日本のフリースタイルの発展を考えると正しい選択でした。
ところがなんと想定外のことが起こりました。
なんと高階救命器具(株)が"スクオートの神様"と呼ばれるジム・スナイダー氏とジムの乗るスクオートボートの製造元のニュー・ウェイブ・カヤック・ブロダクツ社のオーナーであるジョン・シュライヤー氏を大会のために招聘してくれたのでした。
それも「ジムもジョンもテント、シュラフ持参で何としても大会に来たいといっている」ということでした。
神様がそこまで…と嬉しさがこみあげました。
この時ジムが来日しなかったら、その後、日本選手が海外の大会でメダル獲得をすることもなかったろうし、「スクォートギャザー」の開催もなかったと思うと感慨深いものがあります。
その時「魚は嫌いだけれど、また日本に来る」との言葉を残していったのですから…。

シム顔
ジム・スナイダー氏

ジョン
ジョン・シュライヤー氏


●勇気と冒険心に溢れた参加者たち

ヨーロッパ・チャンピオンと神様が来日する!
これ以上のお膳立てと華はありません。
こうして舞台は整いました。
記念すべき日本での初めてのロデオ大会「第1回カヌー・ジャーナル・カップ」は1990年の10月20~21日、岐阜県の長良川タチタチの瀬にて開催されました。

20日はジムとヤンのデモンストレーション。
ヤンのデモでは延々と名艇スタントバットで延々と続くウェーブでのサーフィン、サーフィン状態からのパドルを使っての様々なパフォーマンス、
そして限りなくバーチカルなエンダーの連続に会場が沸く。

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ヤン敬礼

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やや

ジムのスクォートでは反対に、連続するスムーズな神業に会場も息を殺して静かに見守る。
まさに好対照の世界基準のデモンストレーションにギャラリーだけでなく、スタッフも皆うっとりしていた。

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ジム

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夕方からは近く公民館を借りての二人による講義。
黒板を使ってのジムのSOテリック理論、ヤンのビデオを使っての技術解説など参加者の誰もが真剣な眼差しで聞き入っていたのがとても印象的でした。
この講義には後年、大会には出場しなかったものの、日本のフリースタイルの一大勢力となるスリールシーカーズの面々も集まっていました。
翌年から大会にデビューするマーシー(早川政志氏)や理事として貢献してくれたファン・フォーエバーの小野美郎氏などでした。

主催側の情熱に負けず劣らず、熱い情熱を持った参加者達を見て、明日の大会前にして既に大会の成功とロデオの今後の躍進を確信したのでした。
大会前夜、嬉しさのあまりスタッフと郡上八幡市内のカラオケ・スナックに出かけ前夜祭を。
歌を歌い盛り上がったことを今でも鮮明に覚えています。

翌日の21日、いよいよ競技の開始です。
参加者はプレイボート・カヤック部門;21名、同OC-1部門1名、スクオート部門6名。
ジャッジングはアメリカに習い、印象点で9点満点(1点刻み)。ジャッジ5名の合計点。
競技方法はプレイボート部門が1トライ3分×2トライの合計。スクォート部門が1トライ1分。

現在プレイボートの競技時間は45秒。
しかしこの大会ではなんと3分、現在の4倍です。
3分という時間設定はどういう発想だったのだろうか?
その答えは「多分、日本の選手はほとんど何もできないだろうから、3分は必要じゃないか」というものでした。
ところが、いざ競技が始まったら驚きました。
日本選手の何人かは何度もエンダーを決めていきます。
勝負のポイントとなるのは100%、エンダーですからそれを狙うしかないのです。

石川1

石川3

石川2
↑石川選手

岡崎2

岡崎
↑岡崎選手

大沢
↑大沢選手

日本エンダー

日本選手

大沢選手がバーチカルなエンダーを決めれば、後の全日チャンピオンとなる岡崎選手が抜けのよいエンダーで続き、石川選手が抜けの良い高さのあるエンダーをキメます。若手のスラローマーも負けじと続きました。
ギャラリーもこのときばかりはヤンのことは忘れて、白熱する日本選手の戦いにヤンヤの喝采を送っていました。
参考までに石川選手は3種目エントリー、大沢選手は2種目エントリー。
二人の参加は大会を大いに盛り上げてくれました。
また早大のカヌークラブのメンバーがスラローム艇で参加してくれたことも忘れることができません。

大会前、ロデオ以上に「スクォート競技をやる人なんて日本にいるんだろうか?」と考えていました。
要らぬ心配でした。
6名もの勇者が集いました。
それも"スクォートごっこ"ではなく、しっかりとしたスクォート・プレイを披露してくれるのです。


日本SQT

スクォートは参加者中、一番遠い北海道から参加した菅原選手が断トツの力を見せで優勝。
下記はその菅原選手の参戦記です。

菅原

●スクワートとの初めての出会いは、秀岳荘というカヌー店で「Fun Foeverずっと楽しく)」というビデオを見たときだった。
まるで地獄のような瀬をスナイダー兄弟がスターン・スクワートしながら下ったり、
ミステリーやサーフィンをがんがん決めながら、荒れ狂う流れに揉まれながらびしばしと漕いでいくというもので、大ショックを受けた。
そんな瀬にはぜんぜん行きたくなかったけれど、自分でもすごくやってみたくなった。
フネとビデオと「スクワート・ブック」を手に入れて友達とやり始めた。
ビデオをしつこく何十回もみて、本の説明を読みイメージをつかんで、夏も冬も練習。
初めてバウが空高く持ち上がったとき、そして初めて水中をフネと自分が移動できたときの不思議な驚きはいつまでも忘れない。
確かそんな頃にスクワートの大会が長良川であると知って、友達と参加したはず。
それは競い合いたかったからじゃなく、本州の川とか行ったことなかったし、おんなじ趣味の人達の集会に出てみたくて、
そしてジムとはファン・ビデオを買ったときからのペンシル・フレンドだったので、(当時は e-mail なんてぜんぜんなかった)会ってみたかったし。
そこで会うことできた多くの人達は今も大切な友達で、だからあの大会に参加してなかったら自分の人生はだいぶ違ってたと思う。
CJカップに参加しての感想は、まだ出来立てホヤホヤのこのスポーツに対するみんなの情熱に感心させられた。
ジムに会った感想は、すっごく人がいい感じで、あと自分の楽しみや夢を実現することを自分の仕事にし、お金はさっぱり儲かってないけれど一生懸命なとこがいいなぁと思う。
スナイダー氏にとって一番大切なのは、その楽しみを人と共有することなのかなぁ、きっと。
最後にこの道に入るきっかけを与えてくれた人々、そして今サポートしてくれている皆様に感謝します、
ありがとうございます!

菅原大樹:スクォート専用のパドルの製作を行う「大極パドル」のビルダー&オーナー。


こうして日本で初めての大会は盛況のうちに終了。
ジャッジをしてくれたジョン・シュライヤーは「参加者の真剣さには驚くと同時に感激しました」と話していました。
またジムは「日本はこのスポーツで近い将来、重要な役割を担うことになると思われます。
なぜなら日本人はもともと遊び上手に上に、自制心と正しいやるべき方法を知っているからです。
将来的にはアメリカやヨーロッパのスクォーティストに大きな与えると思います」と語り
そしてヤンは「素晴らしい大会に読んでくれてありがとう。また声をかけてくれたら、いつでも日本に来るよ」との言葉を残していきました。

この大会の開催告知後に問い合わせがたくさんありました。
多くは「ロデオってどんなことができれば出場できるんですか」という種類のものでしたが
この時代、ほとんどの人はロデオという競技を知らなかったのが事実です。
それを証明するような事実が、ヤンを大阪の伊丹空港に迎えにいった翌日、川を下りたいというので保津川につれていきました。
当日、ツーリングをしていた人達はスポットでプレイするヤンを見て口ぐちに「あの人何をしているんですか?」と聞かれたことを覚えています。

日本で初めての大会に海外から駆け付けてくれた3人、大会に参加してくれた選手達、大会の趣旨を理解していただいたインポーター各社、そしてスタッフ、誰もが翌年の大会開催を望んだことは間違いのない事実です。
大会終了後、この大会に出場した大沢匡、石川義治、岡崎明久、秋田一行、菅原大樹の各氏他を理事に迎え、日本ホワイトウォータ・ロデオ協会/WhiteWater Rodeo Association of Japanを設立しました。

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そして翌年には「第1回全日本選手権/富士川大会」の開催に繋がるのですが…

■第1回カヌージャーナル杯・WhiteWater Rodeo inNagaraga」リザルト
・プレイボート・カヤック部門;
1.石川義治、
2.岡崎明久
2.武井義隆
3.鈴木秀行

・プレイボートOC-1部門1名
1.石川義治
・スクォート部門
1.菅原大樹
2.大沢 匡
3.清水 廣


注:プレイボーティング誌上ではヤン・ケルナー氏を第1回選手権で優勝した世界チャンピオンと記載しましたが、第1回の世界選手権の開催は翌年の1991年7月の開催でした。

日本のフリースタイル・カヤック競技の20年

1990年に立ち上げたJFKA/日本フリースタイル・カヤック協会も来年で20年目を迎えます。
第1回の日本選手権開催から今日まで、協会の名称変更、競技規則の変更他、大会のサーキット化、国際大会の開催他、様々なことがありました。
協会設立から20年目を迎えるにあたり日本のフリースタイルの歴史について紹介します。

現在、プレイボーティング誌にて日本フリースタイル・カヤック協会の20年史を前号より連載していますが、プレイボーティング誌をご覧になっていない方のために、今後、プレイボーティング誌で発表後、順次紹介していきます。
当時の写真や関係者のコメントも含めて、フリースタイル・カヤック競技のこれまでの20年を振り返ります。



■日本のフリースタイル・カヤック20年の歴史-1990年■


第1回:ホワイトウォーター・ロデオとの出会い

1990年、現カヌーライフ(旧カヌージャーナル)創刊号及び2号の取材のためカナダのバンクーバーに降り立ちました。

バンクーバーでのメーカー&ショップ等の取材、そしてツーリング等を終え、次なる取材地のシアトルに向かいました。
バンクーバーで同様の取材中、とあるショップの店頭にあったメッセージ・ボードの一枚の紙に目が留まりました。
大きな文字で「Bob's Hole Rodeo/ボブズ・ホール・ロデオ」と書かれた蛍光ピンクの紙には、あわせて開催日と開催場所が書かれていました。
しかし、ロデオの意味が分からないのでショップの人に訪ねました。
説明を聞き、なんとなく理解したのですが、もうひとつイメージできない。
しかし、なにはともあれ、場所を聞き、見にいくことを決めました。
ワシントン州のシアトルからオレゴン州まで1日半のドライブ。

会場
↑会場全景

ホットドッグ
↑ホットドッグ屋も出現

パセプション
↑スポンサーです

なんとか大会当日に会場のクラカマス・リバーに辿りついたら、既にロデオなるものは始まっていました。
目に飛び込んできたのは、カヤックを立てたり、立ててから回したりとこれまで見たことも無いものでした。
口から飛び出した第一声は「なんだ!これは?」
何をしているのか意味不明の状況でしたが、動きの面白さとともに彩色が綺麗なカヤックにすっかり見とれていました。
しばらく見続けるうちに、なんとなく競技が理解できるようになってきました。
また同時に繰り出すスキルの違いにより、パドラーのレベルの違いも分かるようになってきました。
競技の内容を理解するに従い、口から出る言葉は「これは凄い!」に変化し、感動の渦にどっぷりと巻き込まれていました。
結果的にしっかりと競技の内容も分からないまま、2時間に亘ってパチパチと写真を撮っていました。

ジェフger
↑ジェフ・スナイダー氏

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競技終了後はブレイクタイム。
その合間に主催者を訪ねて挨拶、そして国道にズラーと並んだ車とパドラー達を取材、撮影。
そんななか、この大会に参加していた日本人の留学生に出会いました。
(彼は翌年に開催された日本で最初のロデオ大会CJカップに出場)
早速、彼に色々と取材をして、この競技が”ホワイトウォーター・ロデオ”という競技であること。
午前中に行った競技が”スクォート”という競技であること、そして技のこと、ルールのことなど
一通り、理解したのでした。

午後からはプレイボートによる競技。
OC-1から始まった競技。注意深く見ているとOC-1ができることは一つ。
ホールというよりもウェーブに近いポイントでサーフィンをして、エンダーまたは何かしらのパフォーマンスを行うといったものでした。
しかしOC-1のエンダーはやはり難しい。
たまに見事にエンダーが決まると、会場はやたらとヒートアップ。
その点、カヤックは一味違いました。
サーフィンは当たり前ですが、ほとんどのパドラーが当たり前のようにエンダーを出していました。
使用しているカヤックは、まだ日本でも出始めたばかりのポリエチレン製のカヤックが中心。
そのほとんどはパーセプション社のダンサーでした。
一部C-1等はスラ艇でしたが、長さ的にもスラ艇は明らかに不利でした。
となればやはりパドルを使ったパフォーマンスしかありませんが、それさえとても新鮮でした。
実際、パドル・トワリング?は加点されるとのことでした。

エンダー

ハンド

トワリング

だいたい「なんで川の中でカヤックが止まるんだよ!?」という疑問を最初から最後まで持っていたのですから…。

ちなみにこの大会は競技時間1分、採点の詳細は分かりませんが10点満点で、ジャッジは得点のボードを掲げていました。

カナディアン逆立ち

C-1.jpg

心地よい疲労と大きな感動を携えて帰路に着いたのですが
車中、ずっと考えていたのは、「来た甲斐があった」。
そして「この新しいロデオという競技を日本で普及させたい。でもまずは大会開催か!?でも出来るかな?出場する人がいるかな?」ということでした。

初めて見た「「Bob's Hole Rodeo/ボブズ・ホール・ロデオ」。
この時の大会に後に日本を訪れたリーボン・フィグリオとジェフ・スナイダーが出場していたことを知ったのはそれから何年も先のことでした。



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