JFKA/日本フリースタイル・カヤック協会公式ブログ

1990年に設立されたJFKA/日本フリースタイル・カヤック協会の公式ブログです。 フリースタイル・カヤック競技の大会主催・運営の他、2007年まで世界選手権、ワールドカップ等へ日本代表チームを派遣していました。

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日本のフリースタイル・カヤック競技の20年


ロデオを特集したCJ3号
CJxx

■日本のフリースタイル・カヤック20年の歴史-1990年■

第2回:日本での最初のロデオ大会開催秘話


●日本に大きな足跡を残した二人のカヤッカーに感謝

現在ではプレイボートという言葉も一般的となりましたが1990年当時、ポリ艇という言い方はあってもプレイボートという言葉はインポーターの一部しか知らなかった言葉でしょう。
プレイボートという言葉と出会ったのは、アメリカで発行されている「canoe MAGAZINE 1990 Buyer's Guide」でした。
その雑誌ではカヤックを11種のカテゴリーに分けていて、プレイボートとはその中のひとつのカテゴリーでした。
プレイボートは正式にはホワイトウォーター・ブレイボートといい、その名前の通りホワイトウォーターでプレイすることを目的としたボートいうことです。
スクォートもスクォートボートというように、カヤックといわずにボートというところは語呂の問題なのでしょうか。
より詳細に説明すると、瀬とホールでハードなプレイできる、ウェーブでサーフィンができる、ターンが素早いといった特徴を備えたボートでした。
この1900年、バイヤーズガイドにプレイボートとして紹介されているのはダガー/レカポンス(3.43m、0.597m、276L)、ノア/AQ(3.18m、0.61m、276L)、ウェーブスポーツ/レーザー(3.4m、0.58m、226L)、プリヨン/ガッチーノ、Tタイフーン他、パーセプション/ダンサー(3.5m、0.6m、263L)コルシカといったボートでした。
ほとんど3m中盤の長さが主流の中、スタントバット(3.11m、0.61m、210L)は全長の短かさと形状、そしてボリュームから、よりスポットプレイを意識した当時では最も進んだプレイボートだったと思います。
参考までにヨーロッパでは当時、スタントボートと読んでいました。

アメリカから帰国して、さてどうして、どこで、いつ、どういう形で大会を開催しようかと日々、考えました。
カヌー関係の友人・知人に大会開催のプランを話しては、いろいろな意見を聞きましたが、一番の問題は果たして参加者がいるのか?
ということでした。
しかし、5カ月後。長良川のタチタチの背と呼ばれる場所で「第1回カヌージャーナル・カップ」を開催することになりました。
いまでは誰もプレイなどしないポイントですが、当時はそこしかなかったのです。というよりも知らなかったといったほうが正しいでしょう。
早速、カヌージャーナルの2号で大会開催を告知すると同時に国内のインポーターにも協賛以来等の挨拶を行いました。
日本で最初の大会ということで、ヨーロッパ・チャンピオンのヤン・ケルナー氏(ドイツ)を招聘することに決めました。

ヤン顔
ヤン・ケルナー氏

早速、当時ピラニアのインポーターだった(株)ゴールドウインに交渉をお願いしました。
ヤン・ケルナー氏はそれまでピラニア・カヤックのプロモーションのため2度ほど来日していました。
その来日の記事は山と渓谷社が発行していた「カヌー・マガジン」にも紹介されました。
実際にあったことはおろか、プレイを見たこともないのですが、ともかく現役のヨーロッパ・チャンピオンを呼ばなくては、次に繋がらないという判断でした。
来日することに関しては快諾をいただきましたが、問題はヤン・ケルナー氏招聘のためかかる渡航費用でした。
結果的にここまできて引き下がることはできないと決断、航空運賃の50万弱を支払うことにしました。
かなりの出費ですが、その日本のフリースタイルの発展を考えると正しい選択でした。
ところがなんと想定外のことが起こりました。
なんと高階救命器具(株)が"スクオートの神様"と呼ばれるジム・スナイダー氏とジムの乗るスクオートボートの製造元のニュー・ウェイブ・カヤック・ブロダクツ社のオーナーであるジョン・シュライヤー氏を大会のために招聘してくれたのでした。
それも「ジムもジョンもテント、シュラフ持参で何としても大会に来たいといっている」ということでした。
神様がそこまで…と嬉しさがこみあげました。
この時ジムが来日しなかったら、その後、日本選手が海外の大会でメダル獲得をすることもなかったろうし、「スクォートギャザー」の開催もなかったと思うと感慨深いものがあります。
その時「魚は嫌いだけれど、また日本に来る」との言葉を残していったのですから…。

シム顔
ジム・スナイダー氏

ジョン
ジョン・シュライヤー氏


●勇気と冒険心に溢れた参加者たち

ヨーロッパ・チャンピオンと神様が来日する!
これ以上のお膳立てと華はありません。
こうして舞台は整いました。
記念すべき日本での初めてのロデオ大会「第1回カヌー・ジャーナル・カップ」は1990年の10月20~21日、岐阜県の長良川タチタチの瀬にて開催されました。

20日はジムとヤンのデモンストレーション。
ヤンのデモでは延々と名艇スタントバットで延々と続くウェーブでのサーフィン、サーフィン状態からのパドルを使っての様々なパフォーマンス、
そして限りなくバーチカルなエンダーの連続に会場が沸く。

img888xxx.jpg

ヤン敬礼

やんぱど

やや

ジムのスクォートでは反対に、連続するスムーズな神業に会場も息を殺して静かに見守る。
まさに好対照の世界基準のデモンストレーションにギャラリーだけでなく、スタッフも皆うっとりしていた。

じむxxx

シ゜ム2xxx

ジム

ジム4

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夕方からは近く公民館を借りての二人による講義。
黒板を使ってのジムのSOテリック理論、ヤンのビデオを使っての技術解説など参加者の誰もが真剣な眼差しで聞き入っていたのがとても印象的でした。
この講義には後年、大会には出場しなかったものの、日本のフリースタイルの一大勢力となるスリールシーカーズの面々も集まっていました。
翌年から大会にデビューするマーシー(早川政志氏)や理事として貢献してくれたファン・フォーエバーの小野美郎氏などでした。

主催側の情熱に負けず劣らず、熱い情熱を持った参加者達を見て、明日の大会前にして既に大会の成功とロデオの今後の躍進を確信したのでした。
大会前夜、嬉しさのあまりスタッフと郡上八幡市内のカラオケ・スナックに出かけ前夜祭を。
歌を歌い盛り上がったことを今でも鮮明に覚えています。

翌日の21日、いよいよ競技の開始です。
参加者はプレイボート・カヤック部門;21名、同OC-1部門1名、スクオート部門6名。
ジャッジングはアメリカに習い、印象点で9点満点(1点刻み)。ジャッジ5名の合計点。
競技方法はプレイボート部門が1トライ3分×2トライの合計。スクォート部門が1トライ1分。

現在プレイボートの競技時間は45秒。
しかしこの大会ではなんと3分、現在の4倍です。
3分という時間設定はどういう発想だったのだろうか?
その答えは「多分、日本の選手はほとんど何もできないだろうから、3分は必要じゃないか」というものでした。
ところが、いざ競技が始まったら驚きました。
日本選手の何人かは何度もエンダーを決めていきます。
勝負のポイントとなるのは100%、エンダーですからそれを狙うしかないのです。

石川1

石川3

石川2
↑石川選手

岡崎2

岡崎
↑岡崎選手

大沢
↑大沢選手

日本エンダー

日本選手

大沢選手がバーチカルなエンダーを決めれば、後の全日チャンピオンとなる岡崎選手が抜けのよいエンダーで続き、石川選手が抜けの良い高さのあるエンダーをキメます。若手のスラローマーも負けじと続きました。
ギャラリーもこのときばかりはヤンのことは忘れて、白熱する日本選手の戦いにヤンヤの喝采を送っていました。
参考までに石川選手は3種目エントリー、大沢選手は2種目エントリー。
二人の参加は大会を大いに盛り上げてくれました。
また早大のカヌークラブのメンバーがスラローム艇で参加してくれたことも忘れることができません。

大会前、ロデオ以上に「スクォート競技をやる人なんて日本にいるんだろうか?」と考えていました。
要らぬ心配でした。
6名もの勇者が集いました。
それも"スクォートごっこ"ではなく、しっかりとしたスクォート・プレイを披露してくれるのです。


日本SQT

スクォートは参加者中、一番遠い北海道から参加した菅原選手が断トツの力を見せで優勝。
下記はその菅原選手の参戦記です。

菅原

●スクワートとの初めての出会いは、秀岳荘というカヌー店で「Fun Foeverずっと楽しく)」というビデオを見たときだった。
まるで地獄のような瀬をスナイダー兄弟がスターン・スクワートしながら下ったり、
ミステリーやサーフィンをがんがん決めながら、荒れ狂う流れに揉まれながらびしばしと漕いでいくというもので、大ショックを受けた。
そんな瀬にはぜんぜん行きたくなかったけれど、自分でもすごくやってみたくなった。
フネとビデオと「スクワート・ブック」を手に入れて友達とやり始めた。
ビデオをしつこく何十回もみて、本の説明を読みイメージをつかんで、夏も冬も練習。
初めてバウが空高く持ち上がったとき、そして初めて水中をフネと自分が移動できたときの不思議な驚きはいつまでも忘れない。
確かそんな頃にスクワートの大会が長良川であると知って、友達と参加したはず。
それは競い合いたかったからじゃなく、本州の川とか行ったことなかったし、おんなじ趣味の人達の集会に出てみたくて、
そしてジムとはファン・ビデオを買ったときからのペンシル・フレンドだったので、(当時は e-mail なんてぜんぜんなかった)会ってみたかったし。
そこで会うことできた多くの人達は今も大切な友達で、だからあの大会に参加してなかったら自分の人生はだいぶ違ってたと思う。
CJカップに参加しての感想は、まだ出来立てホヤホヤのこのスポーツに対するみんなの情熱に感心させられた。
ジムに会った感想は、すっごく人がいい感じで、あと自分の楽しみや夢を実現することを自分の仕事にし、お金はさっぱり儲かってないけれど一生懸命なとこがいいなぁと思う。
スナイダー氏にとって一番大切なのは、その楽しみを人と共有することなのかなぁ、きっと。
最後にこの道に入るきっかけを与えてくれた人々、そして今サポートしてくれている皆様に感謝します、
ありがとうございます!

菅原大樹:スクォート専用のパドルの製作を行う「大極パドル」のビルダー&オーナー。


こうして日本で初めての大会は盛況のうちに終了。
ジャッジをしてくれたジョン・シュライヤーは「参加者の真剣さには驚くと同時に感激しました」と話していました。
またジムは「日本はこのスポーツで近い将来、重要な役割を担うことになると思われます。
なぜなら日本人はもともと遊び上手に上に、自制心と正しいやるべき方法を知っているからです。
将来的にはアメリカやヨーロッパのスクォーティストに大きな与えると思います」と語り
そしてヤンは「素晴らしい大会に読んでくれてありがとう。また声をかけてくれたら、いつでも日本に来るよ」との言葉を残していきました。

この大会の開催告知後に問い合わせがたくさんありました。
多くは「ロデオってどんなことができれば出場できるんですか」という種類のものでしたが
この時代、ほとんどの人はロデオという競技を知らなかったのが事実です。
それを証明するような事実が、ヤンを大阪の伊丹空港に迎えにいった翌日、川を下りたいというので保津川につれていきました。
当日、ツーリングをしていた人達はスポットでプレイするヤンを見て口ぐちに「あの人何をしているんですか?」と聞かれたことを覚えています。

日本で初めての大会に海外から駆け付けてくれた3人、大会に参加してくれた選手達、大会の趣旨を理解していただいたインポーター各社、そしてスタッフ、誰もが翌年の大会開催を望んだことは間違いのない事実です。
大会終了後、この大会に出場した大沢匡、石川義治、岡崎明久、秋田一行、菅原大樹の各氏他を理事に迎え、日本ホワイトウォータ・ロデオ協会/WhiteWater Rodeo Association of Japanを設立しました。

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そして翌年には「第1回全日本選手権/富士川大会」の開催に繋がるのですが…

■第1回カヌージャーナル杯・WhiteWater Rodeo inNagaraga」リザルト
・プレイボート・カヤック部門;
1.石川義治、
2.岡崎明久
2.武井義隆
3.鈴木秀行

・プレイボートOC-1部門1名
1.石川義治
・スクォート部門
1.菅原大樹
2.大沢 匡
3.清水 廣


注:プレイボーティング誌上ではヤン・ケルナー氏を第1回選手権で優勝した世界チャンピオンと記載しましたが、第1回の世界選手権の開催は翌年の1991年7月の開催でした。
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